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【補稿】第2夜 消えたエッセイ

 東京暮らしで知った好きな組み合わせに、とんかつと白ワインというのがあります。

 学生時代に住んでいたアパートの大家さんは、定年退職したあと、敷地の一部にアパートを建てて、悠々自適に暮らしているご夫婦でした。

 月末に家賃を手渡しにうかがったときに、たいていは旦那さんのほうが、おいしいものを食べに行こうと誘ってくださって、自転車で、ときに電車で出かけては、よくご馳走してもらっていました。知らない人からしたら、仲の良いおじいちゃんと孫に見えたと思います。

 山手線沿線にあるとんかつTにも、そんな風にして連れて行ってもらいました。

 私のとんかつ好きはこのお店からはじまりました。幸運なことです。大家さんがこの店に寄せる弾んだ気持ちが私にも伝わってきて、好きなとんかつ屋を持つことは、人生のたのしみのひとつなのだと思いました。仕事で初めて降りる駅なんかでは、今もとんかつ屋を探します。

 本家である目黒のTから暖簾分けを許されたこの店で、大家さんがカウンターに腰を落ち着けてまず頼んだのは、トーレスの小さなボトルでした。固有名詞を覚えるのが苦手な私が、なぜ20年以上前に飲んだ白ワインを覚えているかといえば、闘牛のチャームがぶら下がった印象的なボトルのおかげです。

 私たちのほかにワインを飲んでいる客はいなかったように思います。商社勤務で海外経験も豊富だった大家さんが、「当然これでしょう」と自然に振る舞っていたのをよく覚えています。私には、ワインの味わいなんてものは分かりませんでしたが、それでも、とんかつが揚がるのを待つ間を保たせることができる度量が、ワインにはありました。食欲を刺激しつつもお腹を満たしすぎないという点でも、ワインは抜群にいい。それでいて、肉の脂をスッと切ってくれます。


 いまでもとんかつ屋で飲むのが好きです。ふたりならカウンターへ。それ以上の人数の場合、たとえば目黒のTなら二階を推します。まずヒレかロースを挙手制で決めたら、各自の好きなお酒を少しと、お新香盛りを必ず。串を何本か頼み、肴としてつまむ。

 みんなで同じ定食を食べている感じも、居酒屋やバーにはない面白さだし、会計を見てびっくりすることもありません。自分が払う立場ならなおさら安心。長居しようと思ってもむずかしいから、早い夜に解散できる点もいい──

 

──と、お酒をテーマにして、単行本に収録するエッセイを書いていた私は、確認のために約二十年ぶりにあの店に行ってみました。はるばる山梨から。ネットで調べて終わりにするということは、私にはありません。スマホがない時代から編集者をしていた(と書くとずいぶん歳をとった気分です)ような人はみんなそうだと思いますが、現場に行って確認します。


 ところが、メニューには白ワインがありませんでした。店長さんに聞いても、開店以来ワインは赤のミニボトルしか置いていないとおっしゃる。その赤も、トーレスではありませんでした。

 あの店は、一体どこだったのか...?

 大家さんが持参したワインだったのか.....?

悔しいやら、自分の脳みそが信用ならんやらで、情けないのですが、とにかく、内容に間違いがあるものを発売するわけにはいきません。すぐに編集者に連絡して、上記のエッセイを候補から外し、座りのいい別のものを1本書いたのでした。私はエッセイをn本書いてほしいと依頼されたら2n本ネタを考えるタイプなので、新たに書くこと自体は苦労しないのですが、とにかく、揺れる闘牛は幻のままなのでした。



*新刊『愛しい小酌』が2022年10月21日(金)に大和書房から発売になります(詳しくはこちら)。本には書けなかった裏話やエッセイなどを、【補稿】とし、発売日まで毎夜更新しています。




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