編集長の採点簿

 太田和彦さんといえば、私のような左党にとっては居酒屋文学の代表のような存在です。東京の街を遊びまわる際には、ご著書を参考にしてきました。

 その太田さんがめちゃくちゃおもしろそうな翻訳本『食農倫理学の長い旅』を出されたというので、しかもそれが400ページを超える大作と知り、なるほど、このような形で食の道を極めていくキャリアもあるんだなあ、さすがだなあと思っていたのですが、本を少し読んですぐに分かりました。違う太田和彦さんでした。

 急いでGoogleすると、ご本人のSNSのアカウントにも「居酒屋紀行シリーズの太田和彦さんではありません」と書いてある。

(本、すごくおもしろいです! 年末年始にじっくり格闘したい人はぜひ)


 先月末には「田中宏和の会」(風物詩ですね)が渋谷に178人のタナカヒロカズを集めたというニュースもあり、同姓同名について考えます。


 私の結婚後の姓は、とてもありふれたものです。名も、ものすごくよくある、子がつく名前です。  いっぽう、結婚前の姓は珍しくて、しかも、ときにからかいの対象になるようなある動物が入っていて、思春期の頃に母に愚痴を言ったことを覚えています。変わった姓の人は、どこにでもある姓への憧憬というものを抱いているものなのかもしれません。私はそうでした。

 結婚して姓を変えたときは、あまりにありふれたその名前を、知人にはかえってなかなか覚えてもらえず、田中だっけ?佐藤だっけ?とふざけて聞かれたりしていました。

 

 このありふれた名前で思い出す出来事がふたつ。


 ひとつは間違い電話です。

 10年ほど前のこと。病のため夭折した3番めの姉のTちゃん(私は5人姉妹の末子です)のお葬式の日、慌ただしい1日を終えて携帯を見ると、一時期よく通っていたネイルサロンからいくつも留守電が入っていました。

「本日10時のご予約ですが、まだいらっしゃいませんので、心配しております」の朝にはじまり、「○○さまーご連絡お待ちしておりますー」の午後を経て、声の調子はだんだんと険しくなり、無断キャンセルの咎で「キャンセル代を振り込んでください」の夕暮れへと、一連の威嚇劇は収束していったのでした。

 私と同姓同名の誰かさんが、やらかした。お店がどういう状態で顧客情報を管理していたのかは知りませんが、私とネイルサロンでは全く違う色合いの時間が流れていたことに拍子抜けした記憶があります。別に腹は立ちませんでした。翌日お店に電話して事情を説明し、一件落着です。


 もうひとつは、間違いメール。今朝こんなニュースを見て思い出しました。

 余談ですが、gmailを「gmai」と入力し間違えることを見越して作られたようなタイプのアドレスをドッペルゲンガー・ドメインっていうんですね。初めて知りました。

 出版社で働いていた頃、ある広告代理店からメールが届きました。

 私以外は全員同じ代理店の人だったので、社外秘メールだったのでしょう。

 内容は、出版社各社の編集長の交友関係(どのクライアントと「特に」懇意かなど)から、「アパレルブランドAのパーティに、Bのバッグを持ってきていた」と言った減点(!)要素まで、つまりは採点簿のようなものでした。こんな細かいこと、よく見ているなあとエクセルを開いてニヤニヤしてしまいました。

 当時はSNSが浸透していなかったから、編集長の真のお付き合い事情は簡単には分からなかった。でも今なら個人アカウントを見れば編集長が誰と仲が良いか、どのレストランで会食しているか、どのブランドを愛用しているかはすぐに分かりますよね。正確には「仲良しだと印象付けたい相手(ブランド)は誰なのか」だと思いますが。


 普段から付き合いのある人だったので、すぐに「誤送信ですよ」と返信したところ、後生のお願いですからメールは削除してくださいとのこと。私はまあまあ良識のある人間だし、内容にも興味がなかったので、採点簿は誰にも見せずにゴミ箱に捨てました。10年以上前のこと。もう時効でしょう。

 ああいった採点簿は、実際にどういう場面で役に立つのだろうか。 



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