先日、東京のある作家のところに遊びに行きました。
「どうですか、山梨は」
こう聞かれた私は、
「ものを書いて稼ぐことだけが人生ではないと思うようになった。だから逆に、書くことがすごくおもしろくなってきたし、もっと他にやりたいことがあることも分かった。つまり、忙しい」
というような話をしました。こういうことは、会社勤めの友達に話すより、作家に話してこそです。
彼の答えは、
「やった、ライバルがひとり減った」
この人のこういうところが好きです。
私が彼に上記の話をしたのは、職業作家(ここでは商業的に本を出版をしている人を指します)だけが作家なわけではないというボールを、商業的野心に溢れた作家に、ちょっと投げてみたかったからなのでした。
職業作家だけが作家なのではない。移住してから4か月経って、そう感じるようになりました。きっかけがあります。
先月、勝沼のフランス料理店へ、ワインのメーカーズディナーに出かけました。
料理に合わせたバックヴィンテージを味わいながら、ワイナリーのご夫婦が、2012年はこうだった、2014年はこんなことがあった......と、天候や、チャレンジしたこと、そのときの想いなど、さまざまに語ってくださいました。
四季の記憶と、その恵みであるぶどう、そして、苦労して生み出されたワイン。そこに、ご自分たちの人生が密接に結びついていることに、打たれました。短い文章の中に込められた情報量の多さ。解像度の繊細さ。語彙の豊かさ。ご夫婦が話してくださったこと自体が、詩であり、文学であると思いました。
ご夫婦は、私の職業をご存じです。
「スズキさんは、どんな年月を過ごされました?」
この質問に、私はうまく答えられませんでした。私の人生には、土も木もない。そういうことなのです。
ぶどうの丘に購入した古民家の隣に、Yさんという一家が暮らしています。ぶどう農家を経営されていて、私たちはYさんのぶどう畑を借景にして楽しんでいます。子どもたちも、よくぶどう畑で遊ばせてもらっているし、トラクターに乗せてもらったりも。
移住してきた私たち一家にとても親切にしてくださるYさんとの雑談を通じて、ああ、今はぶどうの枝にこのような処置をしているんだなとか、今はこういうことに困っているんだなとか、農業のサイクルを学ばせてもらっています。
ある起業家の方が、「寝ている間に稼げるような仕組みを作ってこそ(成功できる)」とインタビューで答えていらっしゃいました。その方の考える成功は、お金をたくさん稼ぐことのようでした。
ワイナリーのご夫婦も、Yさんも、寝ている間もぶどうのことを心配しています。そして、自分の手をかけたものしか、実(収入)にはならないでしょう。
でも、そうした方の話の中にこそ、私は詩があると感じます。本を出版する人だけが作家なのではなく、詩人的・作家的に生きている人が土の上に、木の下にいて、そしてそのことにご本人は無自覚で立っていることが、一筋の光に思えるのでした。
なぜ光に思えるのか。それは、暮らす場所や出会う人が変わっていくことで、私自身が変わっていく。結果、書くものが変わっていく。私はまだ、その私を知らない。その未来が楽しみでならないからです。
職業的な作家であっても、真に「作家的」であるとは限らない。自分の根っこに何があるのか。これは、ものを書いている人であれば一度は直面する命題ではないかと思うのです。
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