東京から山梨に越して、2週間が経ちました。
ひとつ、新しいたのしみができました。子どもを迎えに行く前の夕方の10分間、富士山が見えるお気に入りの駐車場までドライブをします。誰もいない四角い駐車場を、おっきな丸い軌道で突っ切って、来た道を戻ります。
この時かけているのが、『Ain’t No Mountain High Enough』です。
オリジナルのマーヴィン・ゲイ&タミー・テレルのデュエット版もいいですし、それをカバーしたダイアナ・ロス版も素晴らしいです。
音楽と乗りものというのは、本当に相性がいいと思います。
うんと若い頃、キューバにひとりで旅をしました。
首都ハバナに数日滞在したあと、長距離バスで古都トリニダに移動しました。
なにもかも埃っぽいバスのなかで、ラジオから流れてきたのは、ビートルズでした。
そのときのことを、エッセイ集『泣いてちゃごはんに遅れるよ』のなかでこんな風に書いています。
──『イエスタデイ』も『レット・イット・ビー』も、感情にまっすぐ踏み込んできた。強がって壊してしまった関係や、自覚しながらも傷つけたひとのこと。心の無数のざらざらした部分と歌詞が共鳴して、どうしようもなくセンチメンタルになった。私とビートルズでは、なにからなにまで違うのに、彼らの遺した作品は胸を衝く。それも、思いがけないところで、思いがけないときに。
それを普遍性と呼ぶのだろう。バスに揺られていたときの私は、確かにビートルズを自分なりの方法で味わっていた。ビートルズをなかだちにして、自分と対話していたのである。
旅というのは、必ず終わりにしなくてはなりません。好奇心だけを抱えて飛行機に乗れば、あとは終わりに向かって進むだけなのです。
アメリカとキューバの間に直行便なんてない時代に、成田からヒューストン、メキシコシティー、グアナファト、カンクンを経て、気が遠くなるような時間をかけて首都ハバナへたどり着いた私は、空港でタクシー待ちをしているときからすでに、とてもさみしかった。
あれほど望んで飛び出してきた旅なのに、もう、さみしくてさみしくて、なぜ地球の裏側をひとりでほっつき歩く羽目になったのか、わからなくなっていました。でも、それが、たまらなく楽しくて、興奮して、やめられない。
そんな風に、傷みと興奮の両方をともなう旅を、若い頃はずっと続けていました。
運転していると、この傷みと興奮の、小さな旅をしているようだなと感じます。
運転席にひとり。スピードを落としてもいいし、ちらりと景色を見てもいいけれど、ハンドルだけは離してはいけない。それは、死を意味します。
死ぬかもしれないという興奮を、私は旅のなかに感じていたのではないかと、今は思います。ハンドルを握る自由があることを、味わっていたのかもしれません。
助手席から彼氏の横顔を熱く見つめるだけの女の子にはなりたくない。
車に乗っていると、そんな風に頑なに先走っていた十代の少女のころを思い出します。
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