物を書いている人の多くが、心ないコメントに傷ついています。
先日、著書に対するひどいコメントを見てしまい、そのあと36時間気分がふさぎこんでしまいました。時間の経過とともにどんな風に気持ちが変化していくのか、自分を観察する習慣が私にはあって、それで、36時間という数値が出ました。
その36時間のうちの4時間めに、知人と喫茶店で会う予定がありました。中傷のことを話さずにはいられなくて、話しているうちに泣きそうになってしまい、それほど自分は傷付いているのだということを実感しました。
鼻をかんだティッシュを、私の部屋に捨てにくる人がいる。捨てた本人はティッシュのことなどとっくに忘れているのに、私はティッシュを踏んで、転んで、ティッシュをどうしたものか悩まされている。そのことが、苦しくて悔しい──といった話を、知人にはしました。
こういうとき、人はさまざまなアドバイスをしてくれます。
「頭の悪い人間の言うことは気にしなくていい」
「妬みだね。それだけうらやましがられるものを持っているってことだよ」
「批判するより、される側のほうがいいじゃない」
全部、私がこれまで実際に言われたことです。
この3つの発言のなかで、私の心を軽くしてくれたのは、1番の台詞でした。この発言者の軸足は100%、相手の頭の悪さにあり、私がどうのこうのという問題ではないということが、気持ちを楽にしてくれたのだと思います。
逆に、私の心をさらに重くしたのは、2番目の台詞でした。それは、他人をうらやましがらせるような甘い飴玉を「見せびらかしている」かもしれない自分自身というものに、私の眼はどうしても向いてしまうからなのでした。
ここ最近、人のお宅に招かれる楽しい機会が重なりました。そこで気がついたことがあります。私にとっては、視野がぐるっと回転するくらい大きな発見だったので、共有したいと思います。
それは、ネガティブなコメントに出くわしてしまったら、
「私は受け取りません」
と声に出して表明することです。もちろん独り言です。
さらに、嫌な言葉を発した本人が、その言葉が入った風呂敷包みを抱えてすごすごと家に帰り、布団に入るまでを想像します。乱暴な言葉を扱いあぐねて、その人は寝苦しい夜を過ごすんです。
想像するからにはちゃんと形があったほうがよくて、私はシェー!のイヤミか、のび太のママを借りています。作者やファンの方には申し訳ないのですが、表情や声が思い描きやすい、生きたキャラクターなので、使わせてもらっています。
なぜホームパーティをきっかけに気が付いたかというと、たとえば、どんなにおいしいシフォンケーキを焼いても、小麦アレルギーがある人は食べられません。素晴らしい赤ワインを持参したところで、このあと運転する人に飲ませることはできません。
持って帰るか、自分で全部消費するか、捨ててしまうか。いずれにしても、最終的には、持ってきた人が決めることでしょう。
素晴らしいごちそうだって、受け取ることができない、もしくは受け取ってもらえないという状況があるのだから、悪意のある物や事に対しても、扱い方を自分で決めていいのだという当たり前のことが、すっと理解できた瞬間でした。
言葉も同じで、汚い言葉を吐いても、それを相手が受けとらなければ、発した人が処理の仕方を考えなくてはならない。自分の胸に引き取るか、別のターゲットを探して投げつけるしかないでしょう。そしてそれは、私の問題ではありません。
私は、ただ、「それ」を受け取りません。
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