文庫の切り身

 通勤帰りの地下鉄で、表紙のない文庫本を読んでいる人を見ました。60代くらいの男性です。

 盗み見れば、文庫本の二十ページやそこらを、(多分)強引に背から引き剥がし、身軽になった本を携帯していて、まっさらな文庫本を魚一尾に喩えるなら、切り身の魚をカバンに入れて持ち運んでいるという風なのでした。


 私がハッとしたのは、本をちぎるというワイルドな行為はもちろんですが、男性の色っぽさでした。

 切り身を食べたら、もうその切り身のことは忘れていくのでしょう。もちろん、捨てるんでしょう。その時一番近くにあるゴミ箱に、ぽんっと。(こういう人は、まさか再度糊付けして丸の文庫に戻すことはしないはず!) 

 ページを皮膚の一部にして生きているというか、呼吸をするように活字を読んでいる人に見えました。なんのタイトルを読んでいるのかまでは分かりませんでしたが。なんせ表紙がありませんから。

 

 あの方の本棚は、どんな感じなのでしょう。本なんて全然所有していないのに、たくさんの本を読んできた人なのかもしれません。


 年明けに引っ越しを予定している私は、今、いろんなものを捨てています。

 一番減らしたいのは、本です。一体どうして、丸の魚の無法地帯です。いつの間にこんなに増えたのでしょう。

 徒然草や源氏物語は当然複数セットあります。赤毛のアンも複数ありました。ミッシェル・オバマの『Becoming』に至っては、翻訳される前の原書が2冊もあります。英語の本を読む習慣は、私にはありません。それが、著名な翻訳家の方が「高校受験の英語力があれば読める」とSNSに書かれていたのを見て、ならばと、買ってしまいました。でもなぜ2冊なのかは覚えていません。


 こう書いていて自明なように、本をたくさん持っているということは──ただ数が多いというだけでは──ちっとも粋ではありません。

 自宅の気に入っているポイントをあげる際に、私は「どこにいても本が見えるところ」ということをよく言っていました。今も言っています。読み終わった本も、これから読む本も、ごちゃごちゃっと家じゅうに置かれているのが好きなんです。書斎もありますが、それだけでは足りなくて、階段の壁一面に本棚をDIYで作りました。他のものが散らかっているとイライラするのに、本は、特別なんです。

 だから、ある社会活動家の方が、「自宅の本棚の上限は100冊まで」とインタビューで答えていたのを読んだときには、そんなそんな、いやいや、なんでもミニマル路線にすればいいってもんでもないでしょうと思っていました。もっと質問を重ねてあれば、その発言の深い意味を知ることができたのかもしれません。


 リノベーション予定の新しい家の本棚には、収納量最低1000冊は欲しいと計画していました。1000じゃ絶対足りないけど、どうしよう、とも。でも、考え直してみよう......800冊とか......600冊とか......と思っています。

 色っぽい家にしたいですから。



劇団東京ミルクホールの最新作『ヤング内閣、戦争を止める!』を観に行く。東京在住の身でミルクを観られるのもこれが最後かもしれない。馬鹿笑いの中に、反骨と風刺。素晴らしかった。



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