赤坂の思い出



 学生時代、赤坂の料亭で、しかも二箇所、アルバイトをしていた。

 ひとつめの料亭は、出勤のたびに専属のお化粧と髪結さんがついて着付けもしてくれる店で、写真を見た客から指名されるシステム。あまり合わないと感じて、すぐ辞めてしまったのだけど、ふたつめの料亭は長く続いた。


 アメリカ大使館宿舎の近くにあった「すがはら」という料亭で、故・菅原通済のご令嬢が経営していた。もともとは通済が客をもてなすために作ったサロンのような存在が、のちに料亭となった。

 女将さん(と私たちは呼んでいた)にはさまざまなことを教わった。「女性は楚々として知的であれ」というポリシーを体現しているような人で、超がつくお嬢様で、ビールが好きでとてもチャーミングだった。私が富山に帰省したお土産にイカの黒造りを渡すと、

「塩辛って好きじゃなかったけど、これはとってもおいしいわ」

と歯を真っ黒にしてもりもり食べていた。


 いろんな女の人が働いていて、いろんな男の人がやってきた。


 2000年前後というのは、たとえば銀行の合併なんかがちらほら出てきた頃で、A銀行とB銀行の頭取が食事をしていると思ったら、新聞に合併のニュースが出たり、政権の動きに大きく関わるような場面を目にしたりした。料亭で密談が行われていた最後の時代だったのだ。


 一見さんはもちろんお断り。客は政財界の有名人ばかりだった。

 当たり前だけど、食べてるときは誰だってお腹をすかせた人間だ。食べ方ウォッチングは私の密かな楽しみで、なかでも「美しい食べ姿No.1」は当時の外務大臣。おいしい、おいしいと言ってどんどん平らげていく姿が印象的だった。贅を尽くした食事にいっさい手をつけない人も多かったから、なおさら。いまでもテレビで政治家を見ると、どんなふうに食事をするのかなあと、話している口元を見てしまう。


 この料亭で友を得た。

 同じ時期に働いていたKちゃんとはいまでも仲が良くて、結婚式ではスピーチもお願いした。九州出身で「太陽に愛された」という表現がぴったりな、日に焼けたスポーツウーマンで、対して「雪みたいな子」とお客さんから呼ばれていた私とは凸凹のいいコンビだった。

 開店前の店では、畳を拭くことにはじまり、ワイングラスを磨き、その間に電話を受け、庭の落ち葉を掃いて、石畳に打ち水し、お客様を迎える香を炊いて……やることが山盛りで、私もKちゃんもふくらはぎをむき出しにして走り回っていた。

 しかし開店2時間前には鏡の前に座って化粧を直し、髪を整え、着物を着て一丁上がり。さっきまでのじゃじゃ馬から化けるんである。笑い方も「ガハハ!」から「ほほほ」「うふふ」である。これが舞台ごっこみたいで楽しかった。


 会談の場が料亭からホテルに変わり、赤坂からひとつ、またひとつ、料亭が消えていった。「すがはら」も現在はない。 

 しかし、時代のわずかばかりの残り香を楽しめる場所が茅ヶ崎にある。  一時代を築いた菅原通済の美術コレクション「常盤山文庫」と、通済が鎌倉山に移築した古民家数棟のうち移築可能な2棟を、茅ヶ崎で酒蔵を経営する熊澤酒造が手を挙げて引き取ったのだ。


──組み直すため手作業での解体を余儀なくされただけでなく、山の上から移築できる木を1本1本車で麓に運び出すという地道な作業を繰り返し、1年かけ茅ヶ崎に運んだ。運ばれた木はすべて洗浄・消毒を施し1年がかりで組み直され、レストランに生まれ変わった。熊澤氏は「日本建築は骨組みを組み換えることで何度でも使え、周りの環境にも合わせやすい。こんな素晴らしいモノが湘南にあったことに驚いた」と話し、「古いものがどんどん無くなる今、自分が孫の代に何か残していければ」と移築への想いを明かした。(タウンニュースより抜粋)


 貴重な古民家の取り壊しは回避され、クラフトビールやピザが楽しめる広大なレストランとしていまも生きている。ベーカリーやギャラリーもあり、一日楽しめる。



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