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絶望の味見

 16年ぶりにインフルエンザにかかりました。指先から眼の奥まで痛くて痛くて、どっちが頭でどっちが足かも分からないほどのたうち回った数日間でした。

 熱が下がって外出許可が下りてからも、食事を用意するのが辛く、食べるのはもっとしんどかった。食欲がなく、嚥下すら億劫で、つめたい水を口に含んでただ横になっていたかった。こんなときに保育園の送り迎えをしたり食事の支度をしなければならないことに、猛烈な火照りから冷めたばかりの骨が、ギリギリと音を立てて砕けていくようでした。

 会社帰りの夫に惣菜を買ってきて欲しいと泣きつきました。駅前に、ちょっと奥を覗けばスタッフが惣菜を作っているのが見えるスーパーがあります。コンビニではなく、その店で和食っぽいものを何品か買ってから帰宅して欲しいと頼みました。あの店なら多分大丈夫。そう踏んだのでした。


 「でかしたでかした、全品二割引きタイムセール」と力なく喜んだのもつかの間、夫が買ってきてくれた惣菜をひと口含んで、吐き出しそうになってしまいました。

 鯖の塩麹焼きはまだ良かった。その他は何を食べても砂糖の味しかしないんです。なぜこんなにもベタべタと甘ったるいのか、絶望しながら食べました。目を閉じれば口の中にあるのがほうれん草か小松菜かも分からない。濡れた緑の葉を噛んでいるが、調味料の味しかしないのです。コンビニではなく、手作りを売りにしているスーパーの惣菜がこのような味とは、この地域一帯の住民の舌は危機にさらされています。


 しかし、味付けとは本来すごく主観的で曖昧なものです。作る人の年齢や地域性も関係しているでしょう。有名な料理家のレシピの中にも、砂糖や味醂をたくさん使うものがあります。ある年代のレシピ本の特徴として「こっくりとして家庭的」であり、「白いごはんに合う甘っ濃い味」が家庭料理において何より大切なものであるという哲学に基づいたものが少なくないんです。このお惣菜のスーパーの調理部長とて、この味付けを良いものと信じ、日々仕事に励んでいるのかもしれません。


 味付けと聞いて、ある友人とのやり取りを思い出します。

 あるとき、ホームパーティに呼ばれた私は、出されたスープを飲んで「!?!?」でいっぱいになりました。味が付いていないような気がしたのです。「気がする」というのがやっかいで、素材の味を察知できない自分の舌が変なのかもしれないと、たいていの人は立ち止まって考えてしまうでしょう。ましてや来客に出す料理に味がないなんて、そんなことってあるだろうか。

 勇気を出して「塩とか、入れた?」と聞いてみた私に、「あ〜忘れた」と友人。普段から味見をする習慣がないうえに、パーティの準備にてんてこ舞いして、味付けのことをすっかり忘れていたといいます。

 なんと! 味見をしたことがない。そんなことがあるのか。

 失礼かと思いつつ深掘りして聞けば、「だってテレビに出てくる料理家って、味見をしないじゃん。一発で味、決めるじゃん。あれが正解でしょう」。さらには、「何回もぺろぺろ味見をするなんて、料理下手な人がやることだとずっと思ってずっと避けてきた」と言うではありませんか! 確かに、テレビなどで紹介されいているレシピは、プロが何度も試作を重ねた完成形なので、理論上は失敗しないし、味見の必要がないのかもしれません。

 私は、スマホに保存しておいた小林カツ代さんのとっておきの動画を見せて、酔いにまかせて説教をはじめました。

 カツ代さんは調理中に何度も味見をする人で、「ああ、おいしい」が口癖でした。美しく引かれた赤い口紅に白いシャツ。あの口紅がはがれたらどうしよう、と見ているこちらはハラハラするのだけど、スプーンをうまく使い、ちょうど唇を上手に隠すようにして一瞬で鮮やかにペろりんっと味見を完了させてしまいます。調味料をちょっとずつ入れて、味見をし、足して、調える。最後はお決まりの「うん、おいしい!」。これで美味しさが何倍にもなります。何より、カツ代さんはすごく楽しそうに料理をします。チャーミングで面白い人だなあ、と物心ついたときから私はテレビのカツ代劇場を楽しみにしていました。

 テレビでは毎日多くの料理番組が放送されています。テーブルには最初から計量された調味料がままごとのように並べられ、焼き立ての”差し替え品”がアシスタントによって用意され、あれよあれよと魔法のように料理ができあがります。味見をする人はほとんどいません。時間の尺の問題もあるでしょう。いずれにしても、料理初心者がテレビを見て料理を学ぼうとしたら、かえって料理下手になるのではないかとさえ、思います。

 インフルエンザから帰還した今、味の強いものはまだ舌が受け付けません。だから、昆布でも鰹でも、いつもより濃いめにだしを引いて、料理に使っています。塩も醤油も、かなり控えめです。春の野菜やきのこ、海藻、たけのこだってなんだって、だしをガツンと効かせて作ります。“薄味”に分類される味だけど、満足度はとても高いです。

 味付けは多種多様なれど、間違いのないもの 、 それは「だし」だと、改めて思います。



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