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観音様と動く城


 正月気分もすっかり抜け、心はすでに春の大型連休へと飛んでいます。

「きびきびと万物寒に入りにけり」(富安風生)

 と襟元をかき合わせつつも、節分の向こう側にいけば、もう春が、そして新元号が見えてきます。私と夫、子どもたちは、昨年のゴールデンウィークと同じくキャンピングカーの旅に出る予定です。


 宿やレストランを予約する旅の支度は、楽しいが煩わしさもあります。子供連れであればなおさら。家で暮らしているように、日常のまま旅に出たい。ならばと思いついたのがキャンピングカーでした。


 冷暖房が必要ない春は、車中泊でも過ごしやすいし、ゆったり寝られるベッドもあれば、ミニトイレも、小さなキッチンもあります。お風呂は立ち寄り温泉を利用すればいい。日本中に点在する道の駅マップさえあれば、予約はもちろん、時計すら必要ありません。

 食事は行き当たりばったり。道すがらの産直市場で地元の食材を調達し、良さそうなパン屋があれば覗いてみる。どの道の駅も、採れたての野菜や、山菜、果物、新鮮な卵や牛乳で賑わっています。限られた材料で何を作ろうか考えるのも、車中クッキングの楽しみです。塩で炒めただけの絹さやのおいしさは忘れられないし、「さっき掘ってすぐ茹でたんだよ」と地元の人にすすめられたた筍のステーキをメインにした朝ごはんは最高でした。途中、湖や高原の景色のよいところに車を停めて珈琲を淹れ、夜は星空のもとビールを飲んで、早くに眠ります。まさに動く城です。


 昨年の旅には目的地がありました。

 東京の自宅から浜名湖、名古屋、奈良観光を経て目指したのは、琵琶湖の北・湖北地方にある高月町。日本に七躯しかない国宝の十一面観音像のひとつ、向源寺(通称は渡岸寺観音堂)の十一面観音像に会うためです。

 数年前に仏教に関する小冊子を作ったことがありました。関東近郊の名刹を選出し、小さなチームでこつこつと取材と編集作業をこなしました。それを見た作家から「でもね、スズキさん。なんだかんだいっても仏像が面白いのは西なんだよ」と指摘されました。奈良と滋賀を訪れたことがなかった私は、小さな棘のように心に引っかかっていたその台詞に導かれ、目的地を西へ決めたのでした。


 高月町は里山に暮らす庶民が協力し合い、戦火から多くの観音像を守ってきた地域として名高い場所です。その中でも白州正子が「近江一美しい」と評したのが、向源寺の十一面観音像です。

 およそ六百キロのドライブを経て対面した十一面観音像は、眉から鼻にかけての美しいラインと引き締まった美しい唇をもち、なにより、豊かな腰を少しひねった姿が艶っぽい。

 向源寺では三百六十度どこからでも観音像を見て構いません。一本の木を下から上へ、上から下へ、一寸も違うことなく削り出していった刀の力と、救済を求めこの像に集まった民衆のエネルギー、そして千年の時を経て今日まで守り続けられてきた奇跡を思うと、あの場に立っていたことが不思議でなりません。


 閉山の時間が近づき、子どもたちもとうとうぐずり始めました。名残惜しそうな私を見て、夫がからっとした調子で言いました。

「また、来ようよ」

 この場所をもう一度訪れたい。そう思える旅は、素晴らしい旅です。次の旅までどうか何事もなく穏やかに過ごせますように──旅を締めくくるのは祈りであることに、あらためて胸を衝かれました。旅と祈りはよく似ています。心身ともに健康で、好きな場所に自由に行くことができる未来への切実な祝福を、旅は内包しているのです。



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