とおやさんぼう
遠矢山房
次の100年の邸宅
東京から電車で80分。世界農業遺産の地・山梨市牧丘町にある築130年の古い家と農地を私が購入したのは、2021年夏のことでした。
長い年月のあいだに増改築が繰り返された、いびつな物件ではありましたが、釘を一本も使わずに栗材だけで建てられた堂々たる駆体を見上げたとき、この家を取り壊してはならないという使命感が湧きました。その後、東京から山梨への移住を経てリノベーションに着手し、2023年夏に無事竣工を迎えることができました。
綿綿と続くぶどう畑に囲まれたこの邸宅を、このたび、遠矢山房と名付けました。130年の歴史を受け継ぎ、これからの100年へと向かうこの家のオーナーとなったとき、ただ生活をする場所として使うだけではもったいないと感じました。もっと外へ開きながら、与えながら、同時に私も子供たちも“受け取って”いくような、そんな場所になるという予感があり、そのためには「私の家」以外の愛称が必要でした。
遠矢の題は、日本画家・丹羽阿樹子の絵画「遠矢」から引いています。拙著『泣いてちゃごはんに遅れるよ』の表紙にも、この絵を使わせていただきました。
矢をうんと遠くまで届かせるために、地面に膝をつく独特の構えは、元々は戦法のひとつだったと言われています。この絵が描かれた1960年代初頭は、初めてのオリンピック開催に向け、日本中に浮き浮きしたムードが漂いました。阿樹子もまた、画家として、トレンドの“映え”モチーフである弓矢(スポーツ)を選び、女性に構えさせたのです。
春の野原と、緊張感ある弓矢。本来はちぐはぐなモチーフですが、のびのびとした構図と平明な色使いが、見る側の緊張をほぐしていきます。絵の中の彼女は観賞の対象ではなく、行動する主体です。そのことを、向日性をもって素直に描いたこの絵が、私は大好きです。
山房は作家の書斎を指します。夏目漱石の「漱石山房記念館」(新宿区立)を訪れたことをきっかけに、いつか自分が場所を作るときには使おうと決めていました。ほかにも、ぶどうの房、乳房......豊かなイメージをもつ漢字です。
敬愛する作家レイモンド・カーヴァーの言葉を借りれば、私が発信するものはどれも A small , good thing(ささやかだけど、役に立つこと)でありたいし、同じく憧れの画家 カール・ラーションの表現によれば、Correctly old is forever new(正しく古いものは永遠に新しい)な存在、つまり、この遠矢山房があるからこそ見えてくるものになるはずです。
不定期ではありますが、人が集まって話したり体験したりする催しも開いていきます。私の発見を、一緒にたのしんでいただけたら嬉しいです。
2023年9月
遠矢山房 オーナー
寿木けい
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