- KEI SUZUKI
言ってくれたらよかったのに
過去に悩んでいたことをブログに書いたりすると
「言ってくれたらよかったのに」
と友だちは言う。
私なんかはとくに、辛いことであっても茶化して笑いを取ろうとするところがあって、そういう自分の軽さ自体が嫌で嫌でたまらないことがあるし、かといってひとになにか言われるのも気分が乗らなくて、結局、悩みの渦中にひとに相談するということはあまりない。
とりわけ、出産や子育てというのは相手によってはポジショニングトークになりやすいから、
「言っても理解してもらえないだろうし、詮ないなあ」
身も蓋もないが、そう思って扉を閉めてしまうことも多い。
子どもや家族のことだけでない。仕事のことでもそうだ。
先日、昔からの友人Kちゃんと会って、会社Aのあとに勤めた会社B時代にとてもつらくて悩んでいたという話をしたら
「当時はまったくつらそうにしていなかったじゃん」という指摘とともに、「あなたは負けず嫌いだから、人に弱みを見せたくないんだよ」とたたみかけられた。
弱みを見せたくないというのとは、違う。自分で決着をつけたいことというのがあって、それを、未解決のままテーブルの上に並べていじくり回したくないだけなのだ。悩むときくらい、ひとりでいる自由が欲しい。(こうして元気で生きていればこそ、いえる言葉でもあるけれど)
固定電話があった時代にコードをくるくる指に巻き付かせながら彼氏や女友達とあーでもないこーでもないと長電話するというような夜が、私にはなかった。
辛かったことも、決着をつけてしまって「過去」になった途端に、ひとにさらっと話せてしまう。しかもけっこう大胆に、あけすけに話してしまうこともある。それは長電話で反芻するようなことではなく、帰りに一緒に地下鉄に向かって、私は銀座線に、相手は半蔵門線に乗って分かれる直前に「あ、そういえばあのひとと別れたから」とか「そうだ、あの会社やめたんだ」と連絡事項として伝えればいいようなことだ。そう私は思っている。
こんな調子だから、付き合いの長いライターさんと銀座で食事をしたとき、
「そういえば、結婚することになった」
とお会計のときにふと言ったら、なんでいま言うのだと羽交い締めにされた。その話をおいしい肴にしてもっと飲めたのに、ああ悔しいということらしかった。もう十年以上前のことだ。
これは決して、目の前にいる相手を軽んじているとか、私の人生と接点を持たないでほしいと思っているからではない。そういう話ではないのだ。
先日久々にBAR BOSSAに行った。
季節の桃のカクテルをおいしく飲んでいると、
「スズキさんは普通のひとが言うようなことを絶対に言いませんね」
店主がこう面白がるような、不思議がるような感じで、レコードを替えた。
聞けば、
「わー、本当に桃って感じ」
「あ、コロナ対策で(透明な)仕切り、つけてるんですね」
とか、バーにきた多くのひとが当たり前に言う定型コメントを、私はまったく言わないそうだ。
そうか、じゃあ、なにか言ってみようと思ったけれど、ふふっと笑っているうちにほかのお客さんが入ってきて店が騒がしくなりはじめた。すみっこでひとりで飲んで、考えごととまでもいかないようなことを頭の中に広げたり仕舞ったりした。楽しい夜だった。