その家事、私にください 

 在宅勤務2か月めに入った。

 

 4月7日にはこんなブログを書いていたが、このステイホーム週間、家事のとらえ方が変わってきた。


 昨日、夫に一日三食の準備と片付けを担当してもらった。

 昼食のあとでシンクを見ると、もうぐちゃぐちゃ。朝ごはんやおやつの洗い物を済ませないまま、昼のぶんを上乗せしている。

 私は片付けながら食事の支度をするので、食べたあとにこのような惨状になることはない(昔はひどかった)。シンクに箸を一膳置くにしても、洗いやすように考えて置く。濡れぶきんはいつも目に見えるところにあって、汚れたらすぐ拭く。直径25センチのフライパンのような、シンクに存在しているだけで邪魔なものは、洗って拭いて、定位置に吊るしてしまう。大したことじゃない。20秒あればできることだ。


 すべては次の作業を楽にするため。あらゆる家事は点ではなく線なのだ。


 いつもの私なら、雑然とした夫のキッチンにイライラするはずなのだけど、昨日は違った。

「あと片付け、私がやってもいい?」

 と声をかけそうになってしまった(実際にはかけていない。だって私の自由デイだから)。むしろ「やらせてほしい」に近い気持ちだった。これはいったいどうしたことだろう。


 答えは、この自粛暮らしにあった。


 子どもふたりの面倒を見ながら、ひとり自宅で仕事をするのはしんどい。何をするにも中途半端で、集中できる時間なんてちっともない。じっと考えることができるのはトイレのなかくらい。それでも、ドアの向こうには、作った紙工作を見てほしい一心で子どもが「ママーまだー?なにしてるのー?」と待っている。聖徳太子はいちどに10人のひとの意見を聞き分けることができたというけれど、それは準備して聞きの態勢に入っていたから出来たことなんじゃないだろうか。


 集中する時間がほしい。いや、時間の問題じゃないかもしれない。集中そのものがほしい。


 この気持ちに応えてくれるものが、家事なのだ。

 自粛暮らしが始まってから、それまで生活を占めていたいくつかの時間から解放された。往復の通勤時間、子どもを保育園や学校につれていく時間、服やアクセサリーに悩んでとっかえひっかえする時間、2日に1回は楽しみに行っていたスーパーでの買い出しなどなど。


 その代わり私が時間を割くようになったのは家事だ。


 キッチンで一日何枚も使うふきんを、桜の木を使った小さな洗濯板で洗うようになった。一日使ったものを夜にゆすいで硬く絞っておき、次の日、朝食のあと石鹸で自分で洗う。ぎゅ、ぎゅ、っと。桜の木が、硬いだけではなく、プラスチックにはない「柔らかさ」もあるのだということが指先で分かる。シワをぱんっとのばして太陽の下に干す。真っ白で清潔で、本当に気持ちがいい。

 それから、中津箒をオーダーした。子どもの工作の紙くずやらなんやらが毎日大量に出るから、掃除機より箒のほうがいいのだ。何年か前まで箒を使っていたのだけど、壁に立て掛けて置いてしまい、穂先を駄目にしてしまっていた。この動画で見た坂井より子さんの箒を使う姿が美しくて、一念発起、検索して、メールで注文した。いま職人さんが作ってくれていて、納品は5月中旬だそうだ。



 朝と夜に家事をしていると、日中は絶対に手に入らない集中が、すっと心におりてくるような感覚になる。ゴールが見えている作業のために手を動かして、物をもとあった場所に戻して、いらないものを捨てて、家がシャンとする。すごく気持ちがいい。カタルシス。


 家電の開発に勤しむかたには本当に申し訳ないけれど、食洗機も、洗濯機も、掃除機も、私はどこかで信用ならんと思っていたのだ。コロナの前からずっと。洗濯物を互いにぶつけ合いさせて綺麗になる原理が、私にはよくわからないし、掃除機だって、やっぱりよく見ると小さなホコリを吸い切れていない。


 便利な家電の謳い文句のなかには、「昔の女性たちが担わされてきた苦役から現代女性を解放する」という大義名分が必ずしのばせてある。

 確かに、真冬に冷たい水で一家全員の下着を洗濯板で洗うのは辛かっただろう。口うるさい姑や舅の目もあっただろうし。

 でも、家事労働ははたして本当に忌み嫌われて、改善が必要で、なんなら省略されるのが当然の存在だったんだろうか。


 それだけじゃないと思う。ささやかな考えごとを体の動きと連動させ、自分の世界に没入して、今日にケリをつけるための儀式に近い性質もあったのではないだろうか。例えばなにかを諦めたり、自分に正直になったり、何もかも曖昧なままそれでも今日はとりあえず寝てしまおうかといった呼吸を、家事は作り出してくれていたのではないだろうか。家事を終えれば必ず明日はくる。


 私はいま、集中するために家事を利用している。家事が私の上機嫌を作ってくれている。手を動かして動き回っているときの脳を測定してみれば、きっといい脳波が出ているはずだ。だって気持ちいいから。(運動不足の解消にもなるし)

 家族のため? 丁寧な暮らしがしたい? 全然違う。超自己中心的な家事なのだ。

 だからこそ、夫が散らかしたキッチンを見て、「わたしにやらせて」と思ったのだ。あそこに格好の集中が転がってる、仕留めろ!

 

 思い返せば、家事を「やってあげている」という、頼まれてもいない犠牲を勝手に払ってみせて、夫へのあてつけにしていた時代も確かにあった。(問題の根っこは家事分担うんぬんではなかった)

 夫が私のこの心境の変化を感じ取っているかどうかは分からない。でも、昨日、夫の散らかしたキッチンを見た私の様子がいつもと違ったことには、たぶん気がついている。

 自粛生活はもう少し続きそうだけれど、今のところ、コロナ離婚という最悪のシナリオは避けられそうな、いい予感で5月が始まっている。



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