母の長い春休み

「いつなら罹って良いか」ということを考えておかなければと思いながら過ごしている。


 医療崩壊を避け、かつ経済の流れをなるべく止めないよう、曖昧にはじまった自粛生活は、もう少し続くだろう。ワクチンの開発が奇跡的に早く進んだとしても、それを私が打てるようになるには時間がかかるだろうし、人口の七割が罹患しなければ集団免疫が獲得できないのであれば、「すでに無自覚の感染者である」という気持ちで他人に接すると同時に、「いつか必ず罹る」とも思っておいたほうが自然だ。じゃあ、乾燥して寒い冬よりは、夏のほうがいいかな…というくらいの見通ししかないのだけれど。


 しばらくは感染者ゼロを誇っていた故郷・富山県も、その後医療施設での集団感染や、帰省したひとなどからの感染が広がるのにそう時間はかからなかった。


 私の母は富山で飲食店を経営している。もうすぐ30年になる。

 富山と東京とでは、ウイルスの流行に関して当然温度差がある。

 私は3月24日の週から、在宅勤務できるように自主的自粛生活の支度をしていた。

 となると気になるのは母のこと。そして母の店のことだ。

 母には、しばらく店を休むように3月20日頃からずっと頼んでいた。

 理由は、まず飲酒を伴う“密”な店であること。さらに、比較的高齢者が集まる場なので、店自体がクラスター源になる可能性があること。

 さらに私が心配していたのはその先だ。閉鎖的な土地で、もしクラスター源になることがあったら、末代まで村八分にされる。大げさに言っているのではない。生まれ育った地で母が生きていけなくなるなんて、そんな人生を母に送らせるのは、耐えられなかった。


 私の心配に対し、母の反応は「気にしすぎ」の一点張りだった。これは想定内。私は粘り強く説得したけれど、でも、なかなか難しかった。半分脅したり、姉妹で結託して泣き落とし作戦に出たり、あの手この手。


 だから、東京に緊急事態宣言が出るらしいという噂が流れはじめた4月1日、2日頃になって、突然母が「休む」と言い出したときは、ほっとして腰を抜かしそうになると同時に、「え? 本当にいいの?」

 思わずこう言ってしまった。


 村八分というと、懐かしく痛む出来事がある。

 私が小学生の頃、父が出奔した。同級生とは仲良くなれずにいつもぽつんと浮いていた私だったけれど、私を痛めつけにかかってきたのは子供たちではなく、「大のおとな」である女たちだった。嫌がらせの電話、悪質な手紙。その攻撃のターゲットになったのは私だった。からかって、蔑んで、暇つぶしをしている田舎者たちが、近所に複数人いたということだ。本当に、品性を欠いた卑劣な行動だと思う。(今はネット上にこんな人たちが山ほどいる)


 その女たちにも子があり、親があっただろう。


 私は最終的には、地元の進学校を総代で卒業することで、朗らかな仕返しみたいなことをしたと思っているし、母を少し守ったと思っている。もちろん、結果的にそうなったというだけで、別に見返してやろうと思って勉強していたわけではない。友達もいないし、家にひとりだし、田舎だし、勉強しかすることがなかっただけの話。(ここから導き出される教訓としては、子供の学力を伸ばすには、何らかの形での孤独が必要だと思う。私の例は極端だとしても)


そんな子供時代と重なるようにして、母は店の経営を始めた。


 30年お店を続けるということは、どういうことだろう。

 生活費を得るためというのはもちろんだけれど、それだけではない。

 いつもと同じお客さんや、時々やってくる初めましてのひとと、酔って同じような話を何度も聞き、笑って、おしゃべりして、片付けて、鍵をかけて、化粧を落として、眠って、また次の日は、店に来てくれる人の顔を思い浮かべながら、おいしいお通しを用意してきた。

 人生そのもの。

 その店をしばらく閉めることにあっさり同意したのは、歳を取って、この末娘の言うことを聞こうと、ようやく思ってくれるようになったのかもしれない。


 店の休業をお願いしておきながら、私は今日の今日まで、母がどのような思いで店を休んで自宅で長い夜を過ごすことになるかまでは、考えていなかった。30年間、いや、子供を産んでからのことを考えると、50年間ずっと働き詰めだったのだから、ご褒美の春休みくらいに考えていた。でも、母の胸のなかには、まったく違う思いがあるのかもしれない。それを伝えに娘にわざわざ電話をかけてよこすひとでないことも、知っている。


 バブルの波にうまく乗り、その後もなんとか今まで好調でこられたのは、何より母の清潔と人柄の賜物だと思う。

 娘が母の自慢をするのも変なはなしだけれど、数年前に実家が全焼して何から何まですっかり燃え尽くしたとき、近所の有志の方々が手厚く、手早く、母のケアをしてくれたことを聞いて、私はああ、これだから母には敵いっこないな、すごいなあと思った。火事があったその日の夕方には、母のために新しい家が用意され、ひと通り家具やらなんやらが揃っていたという。今私が同じような窮地に立たされたとして、一体どのくらいの人がここまで親身になってくれるだろうか。


 母に手を差し伸べてくれた人たちの中には、小学生の私に意地悪をした女たちもきっと含まれていたと、私は思っている。なんせ狭い土地だ。その女たちにも、数十年の間にいろんなことがあったろう。同情、共感、憐憫。いろんな感情が、家をなくした母に向けられたはずだ。それでいい。これであなたたちが私にしたことはチャラだよ、とにかく、母を助けてくれてありがとう、と今は思う。数十年を経てみなければ、人間ってものは、ひとってものは、わからないことってあるんだと思う。時が経ってこそ初めて見えてくるものが、時間のひだの中にまだまだたくさん折り畳まれていると思うのだ。



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