批判には慣れるべき?

 ある女性(Aさんとする)をツイッターでフォローしている。Aさんはご自分の名前を出して仕事をしている方だ。

 あるとき、ツイッターでAさんのことを誹謗中傷している投稿を見つけた。内容は、Aさんの過去について。Aさんの名前も書いてあるので、エゴサーチをすればご本人も必ず目にするだろう。事実かどうかは知らない。でも、たとえ事実であっても、不特定多数の人が見るツイッターに個人情報を晒されていいはずがない。

 私も叩けばそれなりに埃が出てくる人生だから、他人事ではないと思って読んだ。

 私は定期的にエゴサーチをしている。新刊が出た直後はとくに熱心で、一日数回チェックすることもある。

 嬉しい10のコメントを読んだあと、批判的な1のコメントに出くわしてしまっただけで、私はしばらく立ち直れない。このことを人に話したら、

「書く仕事を選んだのであれば、批判に慣れなくては」

と言われた。弱すぎる、とも。

 でも私は、打たれ弱いし、慣れることはないだろうし、傷ついて、怒って、なんとかやり過ごしたり場合によってはケロっと忘れたりして、書きたくなって、また意気揚々と書くと思う。


 こういうものもあった。

 昨年出した本のレビューに、「幸せそうでジェラシーを感じてしまう。だから星はあげない」というものがあった。この方は「いい本ではある」と公平性を保とうとしたうえで、それでも、手放しで本を褒めることを拒否していた。もう、このコメントだけでひとつの女の人生だなあと、ずっしり胸にくるものがあって、唸りながら読んだ。そのかたの書き方のおかげもあるだろうけど、あまり嫌な気持ちにはならなかった。

 私には家族や親しいひとだけが知る、毎日直面している厳しい現実がある。でもそれは、本には書かない。でも、いつか書きたいと思っている。自分に課されたお題だと思っているから、大事に温めている。


 そもそも、じゃなんで書くのか? に答えることは難しい。書きたいから、としか言えない。

 でも、いつでも自分の味方ができるように、自分の書くものに責任を持てるかどうか自問しながら書いている。もしそれを批判されれば、私が受けて立つ。

 批判ではなく、誹謗中傷の類を見つけたら、どうするかなあ…

「きっと許してはおかない」

 と、びしっと表明したいところだけど、見えない相手と戦うのはすごく怖い。それが案外近い人だったらと思うと、それも怖い。



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