息子を出産してから半年ほど経った頃、違う人格に乗っ取られたことがありました。
ある日体内から血の沸く音がしました。プツ、プツ、プツプツプツ……小さな気泡が全身を駆け巡り、理性を保っていた糸が些細なことで突然切れてしまいました。窓から飛び降りてしまいたい衝動に駆られ、尖ったものを見れば皮膚を突き刺したくなりました。身代わりとして、包丁をシンクに突き刺し、燕三条産の最高級の刃先を折りました。これはイライラなんてもんじゃない。暴力性の湧きあがりです。
しかし、数日後には、血が一瞬で零度以下にまで下がったような寒気を覚え、突然泣き出しました。トイレやお風呂など狭い空間でうずくまり、嗚咽を繰り返しました。自分はなんて馬鹿で無能な失敗作なのだろう。立ちあがることすらできない状態が続きました。
死なないだけで精一杯だった。週刊誌で見た、出産後に自殺した著名人の名前がいくつも脳裏に浮かびました。
ところが、こんなにつらい思いをしても、一週間ほど経つと何事もなかったように鼻歌で掃除機をかけているのです。
もしこれが「産後うつ」と呼ばれるものだとしたら。
「プレ更年期」と呼ばれるものだとしたら。
どうやって世の中の女性たちは今まで生きてこられたのだろう。こんなに苦しい、死と隣り合わせのひりついた病を治療する薬があっていいはずなのに、ネットでは納得する情報を見つけ出すことはできませんでした。
「私、一体、どうしちゃったんだろう?」
深夜、泣きながら、夫に手をさすってもらったことを思い出します。
泣きたいのは夫のほうだったでしょう。「図書館の帰りにスーパーに寄ってくる」と機嫌よく家を出ていった妻が、顔面蒼白、四つん這いで帰ってくる。毎日違う女と暮らしているようなものです。
こういうときは体調日記をつけるにかぎります。
ネットでの検索を続けながら、私は体調を細かくメモしはじめました。すると、三か月ほど経過した頃、好調・不調の波は生理周期と関連があることが見えてきました。産後半年といえば、月経が再開した時期とも一致します。カウントしてみたら、月の約半分は「使いものにならない」状態でした。迫りくる職場復帰も、乗り切れるかどうか、不安でした。
夫に日記とカレンダーを見せながら、「来月の◯日あたりに暴力的になると思う。で、このあたりで一転、無気力人間になるはず」
シュミレーションして心の準備をしました。こういうときの夫は頼もしくて、
「とはいってもさ、あなたはもともと感情的なところがあるでしょ?」
などと、明後日の方向から物言いをつけてきません。
車が動かなくなったのはやる気がないせいだと考える人間はいないでしょう。メカニックのエンジニアである夫は、なぜ動かないのか原因を丁寧に掘り起こしていく人で、対象が車から妻に変わってもその姿勢は変わりませんでした。彼の気質にどれほど助けられたか分かりません。
しかしここからも大変で、さまざまなクリニックを受診しても、
「生理痛って昔から重かったですか?」
「お腹の痛みや頭痛はありますか?」
肉体の痛みばかりに重点をおいて問診されました。
「いえ、体の痛みはまったくありません。生理痛も昔からほとんど経験がないです。そうじゃなくて、血が沸く音が聞こえるんです。血が凍る感覚があるんです。何かを傷つけたくてたまらなくなるんです。死にたくなるんです。で、生理が終わると、嘘みたいに元気になるんです。見てください、日記をつけてて。生理と関係してるんじゃないかって、思うんですけど」
こう主張しても、じゃあ、と紹介されるのは精神科でした。
藁にもすがりたい。だから、精神科もいくつか受診しました。元気づけられるような、役立ちそうな診断はしてもらえず、つらくなったら飲むようにと小さな錠剤をいくつか渡されました。
都内のクリニックをさまよっては、月に一度血が沸騰し、暴力的な生き物になり、血は急速冷凍され、「私は生きている価値のない人間だ」と思っていました。かわいい赤ちゃんの隣で。
私を救ったのは、ある日流れてきたラジオのニュースでした。
それは、アメリカのある州では、女性が罪を犯した際に「PMDD」であると診断されれば、刑が軽くなるというものでした。
PMDD──。
女性、しかも症状名にPMがついているので、月経と関係あるのだろうということはピンときて、ラジオの音量をあげて蝉のようにじいっと聞きました。
PMDDとは、「月経前不快気分障害」と呼ばれる症状で、よく知られているPMSに比べると、精神面での不調が強く現れるそうです。2013年に発表された米国精神医学会の作成した DSM-5 という診断基準において、PMDD は正式な病名として認められています。経産婦に多いという研究結果も、専門誌の中に見つけました。
すぐにネットで検索し、PMDD対策に力を入れているクリニックを見つけて予約をしました。2015年当時で神奈川・東京に3〜4軒はあったと思います。これで助かるかもしれない。心が走っていました。
私の場合は、何種類かの薬や漢方薬を試したなかで、最終的には低用量のピルを飲むことで症状が劇的に改善し、こうして以前の自分を取り戻して日常生活を送れています。年齢的なこともあり、現在は服用をやめましたが、特に問題なく過ごせているから、PMDDが期間限定のうつ病と呼ばれるのも分かる気がします。
Amazonで検索したら、2017年にはPMDDを扱ったこういう本も書かれていました。PMDDに関するサイトも、ずいぶん増えたようです。困っている人に届けばいいなと思います。人に話せなくて悩んでいる女性と、「妻が別人になってしまった」と戸惑う男性がどうか減りますように。
私が「実際に」PMDDだったのかどうかは分かりません。チェックシートと問診はあったものの、「PMDDの疑いが濃厚」ということだけなのです。生理前に精神的不調が起きる人がみなPMDDとも限リマせん。そのあたりの判断は、難しいです。
それでも、当事者である私の腑に落ちる答えのようなものが得られた恩恵は、大きすぎるほど大きかったのです。PMDDは分類としてはうつ病のひとつでもあるから、精神科を紹介した医師の診断も妥当だったとも言えるのかもしれません。ピルを飲んだから治ったわけではなく、放っておいてもいずれ快復に向かっていたのかもしれないですし。
ただ、「産んだ女」とそれを支える男という二人組を考えるとき、パートナーが「ふたりの問題」として妻の心身の変化を捉えられるかどうかは、夫婦の幸福度に大きく関係すると確信しています。産後に不調を経験しない女性はいません。その試練をどう乗り越えるか。
もし私がPMDDで悩んでいたとき、夫からひどい言葉をかけられていたら、心の傷は何重にも深くなり、夫への不信となっていたでしょう。恨みを決して忘れないまま、それを懐刀にして、子どもたちを盾にして生きていたかもしれない。
女性の体について男性に理解・共感してもらうのは難しいことです。出産してから急に理解を求めるのも無理があります。子どもを生む前から、普段から、女である自分について対話して表現できるかということも、大切なように思います。
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