小さく、小さく、豊かになあれ

 近所にすごく好きなバーがある。子どもを寝かしつけて夫にバトンタッチしたあと、ふらっと行って、ワインを飲みながらマスターとしゃべる。

 マスターといっても、その店は都内にいくつも店舗を展開するチェーンのひとつで、マスターは会社に属している正社員という形になる。他のエリアの店舗にも行ったことがあるけれど、うちの近所の店がダントツで良い。料理とお酒の内容は同じだから、どこで差がついているかというと、マスターの人柄と、彼が作り出している雰囲気。別格だ。その証拠に、満席で入れないことも多いし、遠方からわざわざ来る人もいる。

 先週顔を出したとき、その店を含む横丁界隈が駅前の再開発の対象地区になっているという話題になった。急な話ではなくて、5年とか7年とか先の話だけれど。

「でね、僕、ここを買ったんです」

 何を言い出すのかと思ったら、マスターは会社を辞めて、この店の権利を買ったという。

「来月からここ、僕のものなんです」

 すごく嬉しそう。メガネだったのがコンタクトになって、いつの間にかイメチェンしてるのはそのせいか。

「いつか自分の店を持ちたいとは思っているけど、その前に、まずこの土地とこの箱が大好きだから、どうしてもここは自分のものにしておきたくて。今後のことはまだ何も考えてないんですけど…」

 何であれ、誰かが本気で「自分のものにする」なんていう決意はなかなか聞くことがないから、私までなんだか清々しくてめでたい気分になった。


 飲食店の小さな物語を集めた本を、作家でbar bossa 店主の林伸次さんが書かれた。タイトルは『なぜ、あの飲食店にお客が集まるのか』。

 東京の人気飲食店のオーナーを林さんが取材し、開業費用から家賃、一日の売上げ、嫌な客にどう対応するかまで、林さんならではのやり方で聞き出す。掲載店は立ち飲みから日本酒専門店、喫茶店まで、20軒。一軒につき14ページが割り当てられた構成で、2ページが導入、10ページがインタビュー、2ページがまとめ。この構成がまずいい。

 家賃や開業資金、一日の売上などの数字はもちろんリアルで面白い。「へえ、300万円あれば開店できるんだ」という事例もあるし、「借金して1,500万円もかけた」という事例とその理由もまたものすごく納得できるものだったりする。単にデータやスペックを丸裸にしただけで終わっていないのは、林さんならではの視点が添えられているからで、経営者の人生観や哲学のストーリーがちゃんと見えるようになっている。過度にドラマティックでもないし、一部のビジネス書のような整いすぎた味気なさもない。

 多分本に書いてあることの10倍くらいの情報量を林さんは精査して書かれたのではないだろうか。100を10に絞ったテキストと、5をやや無理をして10に拡張したテキストというのは、原稿の面構えがまったく違うものだから。

 この本を私は大きく2つの読み方で楽しんだ。

 ひとつめは、ときめきと郷愁である。

 トップバッターが『オルガン』のオーナーである紺野真さんというだけで私の泣きそうになった。なぜなら、もともと紺野さんがオルガンの前にオープンされた『ウグイス』に通い始めたときの20代の思い出── 一緒に店に行った昔の彼氏や仕事仲間とのいろんなこと──が溢れ出てきて、しかも全然色褪せていなかったから。

 それから、自然派ワイン、なかでもラングロールに目覚めたきっかけになった『トロワザムール』も登場する。

「トカゲのイラストだから、覚えやすいですよね」

 スタッフの方に教えてもらったのが昨日のことのような気がする。恵比寿を代官山方面に抜ける途中、左手に現れるトロワザムールへの行き方は、もう体が覚えている。たくさんの贈り物のワインをあの店で買い、いろんなひとのお宅へせっせと持って行った。なぜトロワザムールが特別な店であり続けられるのか、その秘密も本の中に書かれている。

 私が出版社でグルメ情報誌の編集者だったのは28歳までで、そのあとはファッション畑に異動した。その時点で食べ歩きから離れるかと思いきや、私の胃袋は自由航海時代に突入する。仕事(下見やレセプションパーティ)や付き合いで「行かなくてはならない店」がなくなり、好きな店にのびのび行けるようになったのだ。

 好きな飲食店はお腹も満たしてくれるし、心も満たしてくれる。

 心を満たすということについてもう少し考えてみると、飲食店が発している数々のもてなしの要素──音楽、お酒の品揃え、インテリア、会話など、挙げたらきりがない──を理解して受け取る経験そのものが、私は好きのだ。まずいorおいしい、みたいなことではなく。本の中にはたくさんの素敵な店が出てくる。あの店がどうしてあんなに居心地がいいのか、何度も通いたくなるのか、林さんによって種明かしがされてゆくのを、ときめきながら読んだ。

 おいしかったです。

 ありがとうございます。

 また来ます。

 客としての挨拶3点セットがさらりと出てくる店を生活圏内に何軒かもっているのはとても大事なことだ。家でも会社でもなく、街のなかにひとりになれる場所を持つことの精神的効用はもっと重要視されていいと思う。

 ふたつめの読み方は、生き方の話としてとらえること。

 私が20軒の店主から感じ取ったのは、「小さく、小さく、豊かになる」というメッセージだ。

 基本的にひとりで、もしくは配偶者と始めた小さなお店ばかりで、内装も含め色んなことをなるべく自分たちでなんとかするし、近所の人に満足してもらえることが一番大事だという言葉がほとんどだ。コラボや大規模商業施設への出店は考えていないといった台詞も多い。でも、マニアックに自己満足の道を追求して時代から置いてけぼりになっているのとは全然違って、新しいことをすごいスピードで吸収して、外に対して拓かれている軽さがある。なにより、楽しそうだ。大変そうではあるけれど、それでもやっぱり現場が好きなひとたちなのだ。

 私は飲食店を開きたいとは思っていないけれど、この本の中にでてくる経営者たちの「在り方」のようなものに今、ものすごく憧れる。小さく、小さく、豊かに。面白く、誠実で、率直に。

 20軒の中で、行ったことがないゆえに想像力を掻き立てられ強烈に印象に残ったのは『COFFEEHOUSE NISHIYA』の西谷恭兵さんだ。

 私は今でもカフェや喫茶店でMacを開くのがちょっと後ろめたい。カフェでのリモートワーク──古くはノマドワーカー ──という言葉が出てきた頃、なんだか嫌だなあと感じたモヤモヤ〜っとした気持ちの正体を、西谷さんが明瞭な言葉で語っていらした。飲食店とはなにか、ということのひとつの答えがある。すっきりした。ありがとうございます。みなさんもぜひ読んでみてください。

 

 先週酉の市へ出かけた。

 来年からひとつ新しいビジネスに挑戦することになり、その意気込みも込めて、久々に浅草を訪れた。

 私が勝ったのは、片手で簡単に持ち運べる小さな熊手。赤い口紅をひいて、髪に松をくっつけているおかめさんを見つけて即決した。目が合うと微笑んでしまいそうな、自分みたいに小柄で、でも、中身がみっちり詰まったおかめさん。

「それかわいいですね。どのお店で買いました?」

 大事に抱えて浅草駅へ戻る途中、すれ違った女性に聞かれた。二人も。

 神谷バーにも熊手と一緒に入って隅っこの席で楽しく飲んだし、並木薮蕎麦で名物の鴨南蛮も食べた。巨大な熊手ならこうはいかない。行動が制限される。小さいということは、体との距離が近いということでもある。一緒に身軽にどこまでも遠くへ行けそうなもの。私にとっての熊手はそういう存在であって欲しいと思ったのだった。

 最後に。この本には林さんの他にもうひとりキーパーソンが出てくる。林さんの奥様だ。

 奥様がピンとくるお店を見つけてきたり、お店のイベントに参加してみたりして、林さんに一次情報を流す。後日夫婦で行ってみて、やっぱり素敵なお店だねと確認し、後日取材に行く、というパターンがいくつもあった。奥様の審美眼と人柄が垣間見え、この本自体がご夫婦の歴史の積み重ねなしには作られなかったものなのだと分かった。



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