読み書き

  10月に出す新刊の校正の山を越え、著者としての仕事は店じまい、といった週末だった。

  本を書く間、ずっと考えていたことがある。こんなに料理のことばかり考えているなんて、頭がおかしいと思われるんじゃないだろうかという不安。アマゾンの森林火災や韓国との関係など考えるべきことが山のようにある中で、私が書いているのは会社から帰宅後に30分で晩ごはんを作る方法なのだ。

  こういう自意識は暴れだすと際限がない。解決するにはやはり書くしかなくて、うんと遠くから眺めようと努力したり、単語のひとつひとつにまで潜り込んで神経を張り詰めたりして足掻いているうちに、原稿に集中することができ、自意識は締め出されていく。自意識⇄締め出し。このプロセスを何度も繰り返しながら、数万字を書き進める。

  不思議なことだけれど、読まないと書けない。例えば3日書いたら、次の日は他人が書いたものに30分でもいいから浸らないと、原稿が書けなくなる。読む本のカテゴリーは、今自分が書いているジャンルとはまったく違うタイプの本がいい。ただし、よい本に限る。

  人の本の内容を真似するとかそういう話をしようとしているのではない。よい本とは、自分の胸に連れて帰って、もっと深く考えてみたくなるヒントに溢れている本。だから、出合うべき本を選び取ってよく読める人は、よく考え、よく書ける人なのだと思う。本として書き出すアウトプットが増えれば増えるほど、言葉を手繰って思考のスイッチを押すプロセスを渇望するようになる。こういう話を人としたことはないけれど。

  志村ふくみや岡 潔、神谷美恵子のように、本来文章を書くことを生業とはしていない人の言葉に、深い部分で打たれることがある。経験に裏打ちされた強いメッセージは、文章表現の技巧を軽々と超越し、生への肯定に貫かれていて、いつも私にとって立ち返るべき澪標になる。

  本を出すということは、特に、私のように自分の生活の引き出しから何かを書く者にとっては、最後になって「なんちゃって、これフィクションかもよ」と読者を煙に巻くことができない。小さな枝を毎日拾っては家を建てていく作業のようなもので、出来上がったものは間違いなく私自身。少なくとも、一冊目の本を出すまでは、私はそう信じていたし、世の中にある実用書と呼ばれる類の本も“作者自身”と疑わなかった。

  しかし、一冊目の本を出したあとの親友との会話が私の考えを変えた。

  20年来の親友はこう言った。

「この本に書かれていることは全部本当だろうし、あなたっぽくもあるけれど、私にとっては、あなたの10%くらいを取り出して、すごくきれいに包装して本屋に並べられている気がする」と。手放しで褒めてもらおうとは思っていなかったけれど、こそばゆくて、痛かった。

  こう続く。「女と女とか男と女とかそういうことの、ぎりぎりのところを刺して、唸らせたり笑わせたりしてくれるのが私にとってのあなただから。この本はなんか美しすぎて、不思議な感じ。でも、これ私の友達の本だよ読んで!って自慢したいのは間違いない」。ああ、このひとは、私のことをそういう風に見ているのかと、頼もしく思った。本は私の大事な一部ではあるが全部ではない。そう思えたことは、このときの親友の言葉のおかげだ。

  理解者といえばもうひとり。本の執筆作業にはたいていの場合、伴走してくれる編集者がいる。褒めそやして欲しいとも、叱り飛ばして欲しいとも思わない。ただ、編集者がどう感じたかを、率直に言って欲しいと思う。あの一文を読んで母を思い出した、みたいなことだっていい。というか、そういう個人的なエピソードほど嬉しかったりする。なぜなら編集者はひとりめの読者だから。私の言葉で少しでも心を動かせたなら光栄に思う。幸いにも、私が今まで接した編集者はみんな「もうじゅうぶんです、ありがとうございます」とお礼を言いたくなるくらい色んなコメントを寄せてくれた。深夜でも、休みの日でも。書く側はもちろんだけど、編集者もよい本を読んで自分の感情の機微と向き合い、言葉にする訓練をしている人々なのだろうと思う。

  本を読もうぜ!みたいな話になってしまったけれど。とにかく、10月に出る本は曖昧さを排し、斬り込んでとてもよく練られた本になったので、楽しみにしていてください。ではまた。



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