カジキと幸福

 晩ごはんのカジキを焼いていたら、突然信じられない幸福感に包まれた。

 いつもより十五分も早く会社を出ることができた日だった。片付いた台所に立って新鮮な材料に触ったあと、私は菜箸でカジキをひっくり返していた。朝のうちに子供の好物のかぼちゃも煮てあったし、しかも無水鍋でちょっとだけ焦げ目がついてうまく仕上がっていたから、気持ちにも手の運びにも余裕があった。

 自分の内側からぽこっぽこっと熱い気泡が沸いて、胸が苦しくなるような感覚だった。突然世界が変わって見えて、ああ幸せだと思った。

   いつもやることリストに追われて、ところてんが押し出されるようにして毎日を流されてきた。週七日のうち、少なくとも三日、いや四日はこんな風に過ごそう。そのためにきちんと食べて、寝て、仕事をしようと改めて思った。

 晩ごはんを食べながら、同じような体験をしたことがあるか夫に聞いてみた。

 正力松太郎を作家だと勘違いし、シェイクスピアを一巻も読破したことがない夫の口からどんな答えが返ってくるかと思えば、きっぱり「あるよ」と。聞いておいてなんだけど、ちょっと意外だった。

 愛車の幌をオープンにして朝日のなかを走っていたとき「世界はなんて美しいのだろう」という強烈な感覚に包まれたことがあるという。夫が二十年以上乗っているのはどこもかしこもうるさい小さな車だ。不調が現れるたびに夫はわざわざ部品を取り寄せ、すべて自分で直す。ハンドルを握っていると、車を構成する部品のひとつひとつが全身で頑張っている声が伝わってきて可愛くてたまらないと言う。欠点だらけの車は、しかし姿は最高にクールだ。

 欠点や面倒くささがあるからこそ面白いと思えるような人でよかったと、このとき心から思った。とくに、一緒に子育てをしていく相手がこの人でよかった。

 夫は妻に食器を買いすぎだとケチをつけ、使ってないものは人にあげるかいっそのこと処分してしまったらと言う。ハレの日にしか使わない漆のお重も、どれも同じように見える大量の豆皿も、私にとっては大切なものだ。いっぽう妻はしょっちゅう手入れが必要な車なんて手放して、もっと燃費のいいエコカーに買い替えたらいいのにとぼやく。うちのガレージには鉄のアートが展示してあるよねと嫌味もずいぶん言った。そんな夫婦でやってきた。

 夫が朝日の中で感じた世界の美しさが、温度が、彼の言葉を介しひとつの情景となって私の胸にも乗りうつってきた夜だった。車のことで嫌味を言うのはもうやめようと誓った。もっと早くやめなくてはならなかったのだ。互いに美しいと思うものをいたわり合いながら歳を重ねて行けなければ、向かう先にはあるのは無関心か、亀裂か。

 ボンネットで天ぷらは揚げられないし、豆皿に乗って房総半島を目指すことはできないのだから。そんなの当たり前のことなのだから。



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